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谷桃子
日本バレエのパイオニア [ 文化・芸術 ]
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谷桃子
[インタビュー]
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背筋を伸ばして生活しよう(1)
2006.10.22
[ TOPBRAIN RADIO ] あのひとの美意識を聴く!
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体を使うということが人間には大事なことだと思うんですね。
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白鳥の湖を観て、クラシックバレエに転向
植松 本日はバレエ界の巨匠、谷桃子さんをお迎えしております。
マダム 今回、私が本当に尊敬してやまない谷桃子先生とお話する機会を持てることが出来て大変光栄です。お忙しいところ、有難うございます。
谷 どうぞよろしく。
マダム こちらこそ宜しくお願いいたします。私が谷桃子先生に初めてお目にかかったのは、8年前に3歳の娘がバレエを習いたいということで谷桃子バレエ団の研究所に見学に伺ったんです。その時に滅多にお目にかかれない谷先生がいらっしゃって、このように気品のあるお優しい方にバレエの美しさを娘は学んでもらえるのではないかという期待のもとに入所させていただいたのがきっかけなんです(笑)。親子で先生を尊敬しております。 谷 恐れ入ります。
マダム 先生は本当にお美しくていらっしゃって。
谷 とんでもございません。
マダム 1921年にお生まれで、今85歳でいらっしゃる。とてもすーっと背筋も凛としてらっしゃって。
谷 とんでもございません。ガタガタでございます。
植松 いえいえ。とんでもございません。
マダム 今ではもうバレエはブームですけれども、戦前のバレエが日本でまだ定着していない頃から日本にバレエを根付かせるような活動をずっとしてらっしゃって。ですから戦時中のバレエの活動の様子やそれ以降のいろいろなお話を伺えれば、と思っております。先生はもう全国を回られた、とおっしゃってましたけれど。
谷 はい、戦後ですね。戦時中は慰問であちこち日本全国に参りましたけれどね。こないだお亡くなりになりましたけれど、戦後、小牧正英先生が上海から日本へ帰られて、日本で踊っておられた島田先生とか東先生とか貝谷さんとかという方々が皆さん集まって、昔の帝劇ですけどもその舞台で白鳥の湖を昭和21年に公演されましたのです。それからクラシックバレエが日本に入ってきて、大変なブームになりましたですね。
マダム 先生、その時オーケストラはあったのですか。
谷 ええ、オーケストラはありました。
マダム でも白鳥の湖のスコアなどは。
谷 それは小牧先生が持っておられたので何とか出来たわけですけどね。
マダム そうですか。
植松 その先生というのは谷先生が師事を仰がれたバレエの先生ということで。
谷 はい。私はその頃、第一回の白鳥の湖の公演を観に行ったんです。日劇に籍がありまして、日劇の舞台で踊っておりましたんですけども帝劇へ観に行ってすっかり感激して、それまで私はモダンダンスのほうをやっておりましたけど、ぜひクラシックをちゃんと勉強したいと思いまして小牧バレエ団へ入団させていただいたわけですね。
戦時中は舞台がなくてもいろいろな舞台で踊った
マダム 白鳥の湖で先生は千回程、オデットを踊られた。(笑)
植松 千回!
谷 はい、オデットを千回近く、二幕は踊ってまいりました。
マダム 白鳥ですね。
谷 はい。
植松 千回といっても、戦時中は今で言うしっかりしたバレエとしてのステージではなく、それこそ整っていない場所で踊る機会もかなり多かったと思うんですけど。
谷 はい。日本全国参りまして、舞台がなくても映画館とか体育館とか。もういろいろ小さい舞台でやらなきゃならないので皆大勢で参りますと、出たり入ったりして(笑)。あとは日本の芝居小屋ですね。皆、お客さんは升になったところへ座って、冬なんかは火鉢をそばに置いて、そして観たもんですね。そういう芝居小屋で、暖房も何もないところで踊ったりすると鼻は冷たいし、手の先も冷たいし、またトウシューズを履いたそのつま先の痛さとか、いろいろもう風を切るのでとても辛かったことを覚えております。
植松 そうですよね。
谷 はい。
植松 でもそういう活動の上でバレエを広めていくという。
谷 そうですね。開拓者みたいですね。全然観たことのない方達が「バレエってどんなもの」ということで観にいらしてくださって。私は一生懸命広めたいという気持ちもあって、自分も舞台の勉強をしながら踊りまわったものですね。
マダム 先生は一度バレエを辞めようと思ったことがあるというお話がとても私は心に残っていまして。パリ留学を1954年、今から52年程前にそんなことを思ったというのをお伺いしたのですが。
谷 とにかく初めてパリに行きまして、素晴らしいオペラ座の舞台を観て、初めの頃は感激して「素晴らしい、素晴らしい」と思いながら観て、その組織力もすごいし、オペラ座という見事な舞台を観て感激してましたけども、しばらくしてからマルセルマルソーのパントマイムを観に行って、それを観た後、すっかりやはり感激して「パントマイムはいいもんだな」と思っておりまして、自分なんかは「オペラ座で踊るようなバレエをやるよりもパントマイムのほうが自分には合うんじゃないか」なんて考え出しまして。オペラ座の素晴らしさは日本ではとてもあんなことが出来ないし、日本にはまだ何にもないし。そんなことを考えたら、年も35位でしたから、とても無理だなと思って考え出してノイローゼみたいになってしまって、日本へ帰ってきましたんですよ。それで母に「とても手に合わないから、自分はバレエを続けられない」と言ったら、「日本のバレエはこれからなんだから」と言って励まされたり、一緒に仲間で踊っていた人達も皆さん帰ってきたのを喜んでくれて、「やろう、やろう」と言ってるのに私が反対にそうやってがっかりしたようなことを言ったので、皆がやはり悲しむだろうしなんて思いながら、母が言ったように「バレエはこれからなんだから、あなたも一緒にバレエを育てて育っていけばいいでしょう」と言われましたので、それでやっと思い直して。嫌いではないですし、踊ることが好きなものですから、やはり始めるようにいたしましたんですよ。
マダム 多くの方に谷先生は支えられて、応援された。
谷 そうですね。一緒に小牧バレエ団から辞めてきてくれた仲間がいまして、その人達と「一緒にがんばろう」ということでやりましたんですよ。
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